“An Innocent Man” (1983)
以前、ボン・ジョヴィは一緒に成長してきた自分の世代のバンドだと書きましたが、時々ビリー・ジョエルも私の音楽人生の中では長い付き合いだなあ、とふと思いを巡らすことがあります。中学2年生の年末にポール・マッカートニーとビートルズのLPを買ってもらい、その後はずっとお小遣いでビートルズのLPを集めていました。中学3年生で受験を迎えても、最新のアメリカのヒット・ソングを毎週「ベストヒットUSA」でチェックしていました。ちょうど夏くらいから、ビリー・ジョエルのTell Her About It(あの娘にアタック)、Uptown Girlがヒットし、「ベストヒットUSA」でもよくビデオを見ました。ビリー・ジョエルはそれ以前にHonestyがネッスルのテレビCMに使われていたこともあり、友だちの洋楽好きな子たちの間でも、人気がありました。上記の2曲が好きだった私は、初めてビートルズ以外、しかも最新の英語のLP ”An Innocent Man”を塾通いの帰りに買いました。家に帰ってLPを聴くのが待ちきれないほどでした。
ビリーが若い頃に影響を受けたドゥー・ワップやR&BがコンセプトのLPということで、A面は軽快なEasy Moneyから、ベートーベンのメロディが一部使われているThis Night、モータウン風のTell Her About Itまで、B面はUptown Girlで始まり、こちらもヒットしたKeeping The Faithまで本当にどの曲もいい曲すぎて、今回この中から1曲選ぶのが難しかったです。The Longest Timeではビデオを含め、みんなで歌っているような印象がありますが、実はレコードではビリーが全パート歌っているというのも、当時聞いたエピソードでした。また、このLPはよく友だちに貸したりもしました。その代わりに違うLPを借りたりと、とても楽しい時代でした。
留学していた1990年から1991年当時、間違いなくビリーはアメリカ人が好きなミュージシャンのひとりであったと思います。留学先の大学は州立大学の本校で、5万人くらいがキャンパスにいるメガ大学でしたが、私は数ある寮の中でもたったひとつしかない、同じフロアに男女が暮らす寮に入っていました。特に私のフロアはMartin Luther King’s Houseといい、黒人の学生が半分くらいで、私は寮全体でただ一人の日本人でした。音楽の力はすごいなと感じたのは、やはり私はアメリカやイギリスの音楽を聴いていたおかげで、初めて会った人とも音楽の話で盛り上がったり、話がはずんだりしたことでした。だいたい、お互いいつもどういう音楽を聴いているのかと話から始まるのですが、当時、ほぼ全員と言っていいくらいビリー・ジョエルの名を挙げていました。黒人の女の子も、ビリー・ジョエルはよく聴くと言っていたので、彼はやっぱり人種に関係なく人気があるのだな、と確信しました。留学中、唯一行ったメジャーなコンサートがビリー・ジョエルだったのですが、グレイハウンドバスに乗って約3時間のピッツバーグまで見に行くことになり、そのことをなぜか寮のフロア中の人が知っていて、楽しんできてね、とかダフ屋には気をつけて、などど次々と私の部屋に言いに来てくれたのがすごくうれしかったです。
ペンシルヴァニア州はほぼ長方形の形をしており、私の留学していた大学は、その長方形に対角線を引いて2つの線が交わる本当のペンシルヴァニア州のど真ん中にありました。うそみたいな本当の話です。街には小さい空港がありますが、当時ワシントンDCまでの航路しかなく、鉄道の駅もなかったので、車を持っていなくてどこかへ行くためには、まずグレイハウンドバスに乗らなければいけません。長い休みの間は寮を出ないといけないので、私はよくグレイハウンドバスで州都のハリスバーグまで行き、そこからアムトラックでニューヨークやフィラデルフィアまで出ていました。寝台車に乗ってシカゴに行ったこともあります。ハリスバーグは、ちょうどグレイハウンドのバスターミナルの真上がアムトラックの駅でしたので、便利だったのです。そしていつもグレイハウンドの中で聴いていた音楽がビリー・ジョエルでした。特に、ニューヨークに行くときに聴くNew York State of Mindは最高で、今からニューヨークに行くぞ!っていう気持ちを高めてくれたものです。それから、同じく交換留学生だった日本人の友だちのルームメイトがAllentown出身で、休みの時にルームメイトのお家に遊びに行ったので、Allentownという街が本当にビリーの歌のようにさびれた感じなのか聞いたりもしました。
あと、ビリー・ジョエルの思い出で忘れていけないのは、阪神淡路大震災の日、1995年1月17日は大阪城ホールでビリーのコンサートが開催される予定でした。もちろん私も行くことになっていて、その日を心待ちにしていました。ビリー自身も大阪市内のホテルで地震を体験しましたが、ものすごく怖かったと思います。ビリーはLAに住んでいたこともあるので、地震を体験したことがあったかもしれませんが、基本的にアメリカの東海岸に住んでいる人は、一生地震というものに遭遇しない確率の方が高いはずです。私は大震災の当日、午後からふだん使っている鉄道が動き出したので、会社に出勤しました。フロアで1/5くらいの人が来ていて、私も倒れた棚に入っていた書類やコーヒーカップなどのかたづけをしてから、念のため大阪城ホールに足を運びました。インターネットが無い時代の話です。もちろんその日のコンサートは中止で、数日後に延期になりました。しかしコンサートの当日は、まだまだ気分が重かったです。仕方ないことですが、客席は空席が目立ちました。余震も多くて、ビリーのスタッフの人たちの中には、一刻も早くアメリカに帰りたいと思っていた人もいたに違いありません。しかし、コンサートを中止せず2日とも公演をきっちりやってくれて、またコンサートの収益金を寄付してくれたビリーには今でも感謝の気持ちでいっぱいです。
付き合いが長い分、彼に対する想いはたくさんあります。またビリーについても時々書いていきたいと思っています。
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